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4月19日「堀川国広とその一門」展 見聞録

4月19日、茨城県古河市の古河歴史博物館に行ってきました。目的は、ここで開かれている「堀川国広とその一門」展を見て、刀剣研究家・岩田隆氏の記念講演を拝聴するためです。
会場に展示された国広とその弟子達の作品は、重要美術品、特別重要刀剣を含めて30口。天正から慶長にかけての時代の息吹を感じさせる名刀がズラリと並んで圧巻でした。

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記念講演では、岩田氏の永年の国広研究の成果が発表されました。従来の通説に疑問を投げかける興味深い内容でした。そのいくつかをご紹介しますと、「国広は通説では主家の再興を図るため諸国を流浪し、足利学校では『山姥切り』等を鍛刀したと言われているが、果たして国広は流浪・放浪の刀工と言えるのだろうか?豊臣秀吉の小田原攻めなど世情不穏な時、日州から足利まで危険を冒して相当な旅費をかけて行ったにしては鍛刀数が少な過ぎる。その当時の足利学校の校長は誰だったかを調べると、7代は鹿児島出身、8代は国広と同じ日向出身、9代は肥前小城出身でいずれも九州である。当時足利学校では、明貿易に関心が高く、明貿易を希望する学徒も多数いたと伝えられ、国広が明及び明貿易に精通している事を知っていた九州出身の校長が、彼を講師として招聘したと考える方が妥当だ。また信濃守の受領は僭称だとする説があるが、岐阜で大道との合作がある事等からすると、足利学校に行く前に大道と交流があり、朝廷との繋がりが強かった大道の推挙で受領したと思われる。だから僭称ではなく、天正17年頃に正式に受領したのだと思う。国広には大黒天の彫り物が見られるが、乗っている俵の右側、つまり向かって左側の俵が大きく、大黒天は右側を見て目線は刃寄りなので、彫り物は指し裏にあるのが普通だ。それ以外だと、後彫りか注文主の意向か、いずれ何か訳があると考えた方が良い。また頭巾の先が尖って跳ね上がり、小槌も上に上がらず肩の辺りで止まっているのが室町末期の大黒天の彫り物の特徴だ。」以上、とても参考になる内容でした。
この「堀川国広とその一門」展は5月6日まで開かれています。
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3月30日 春一番の鑑定会

秋田市の茨島コミュニティーセンターを会場に、雪国秋田の「春一番の鑑定会」を開催しました。お天気が小雨模様で、年度末ということもあってか、参加者は残念ながら少なかったのですが、久方ぶりの本部刀鑑定会という事で皆さん熱心にご覧になっていました。講師は公益財団法人日本美術刀剣保存協会学芸部調査課の井本悠紀学芸員です。鑑定刀は1号刀が安綱の太刀、2号刀が堀川国広の刀、3号刀が長曽弥興正の刀、4号刀が備前長船の長義の太刀(大磨上げ無銘)、5号刀が肥前国住人忠吉の薙刀でした。

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1号刀は、平安末期から鎌倉初期にかけての所謂古伯耆で、毛利家伝来です。地鉄は板目に杢目が交じって地沸つき全体に黒っぽく、刃文は小乱れ、小互の目に刃沸つき刃肌現れる典型的な作柄です。2号刀は、慶長新刀姿で地鉄がザングリとしており、匂口に深い処と締まった処のある国広の手癖が見られます。3号刀は、寛文新刀体配で虎徹に良く似ていますが、刃文に金筋・砂流し・地には湯走りが入り、虎徹より野趣に富んだ作例です。4号刀は、小田原・大久保家伝来の長義で、杢目・板目交じりに地景入り、乱れ映りが顕著に現れた名作です。長義というと沸出来の相州伝ですが、この4号刀は備前色の強い作品で健全なものでした。5号刀は、小板目・小杢目が良く詰み、地沸が一面に散った姿の美しい薙刀です。刃文は小沸出来の直刃が基調の浅い湾れに、二重刃や喰い違い刃の入る、来国光に良く似た作品です。薙刀が鑑定会に出てくる事はあまりないので、井本先生は色々な薙刀の写真を使って、鎌倉時代からの姿の変遷について説明して下さいました。分かり易い説明でとても勉強になった一日でした。

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